Friday, September 14, 2012

日本人、何で?!ー授業編1 「わかった?」

序言

 ただいま!孔子学院主催の中国浙江大学2週間短期留学プログラムから帰ってきた!
とても楽しかった!今回のツアーメンバーは皆個性的でおもしろかったから
毎日楽しかった!フェースブックに写真どんどんアップしているので、
よかったらみてみてw

 始めての中国でまた文化的気づきがたくさんあった。特に一緒に行ったメンバーは日本人がほどんどだったので、異文化ショックもたくさん見られた。ますます日本人マインドがわかってきた気がするw笑 やはり文化は比較してからはじめて「当たり前」を捨てられるんだなと再び感じた。これからはもっともっと旅をしなきゃ。

 さて、二週間ぶりの続きー授業編を書こう!

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授業編1  「わかった?」

日本で

「ここわかる?」

しーん。。。

「わからないことある?」

しーん。。。

「じゃ、次に行きまーす」

しーん。。。

 どうですか?このような風景見たことありませんでしょうか?なんか懐かしいでしょう。もしかしたらあなたは今でも毎日経験しているかもしれませんね。

 私は日本に留学してから毎日見ているのだ。授業の中で、先生が皆の理解を求めるときに、日本人はいつも黙る。何で?まさか皆寝てるのでは?でも違う。左の人が時速90キロで鉛筆を動かしている、右の人が演奏の指揮者のように手を振ってメモ用紙をちぎっていく、後ろを見たら皆の目が目バチマグロみたいに先生を見つめている。何だ、一所懸命聞いている人が多いじゃないか。じゃ何で黙る?一言「わかりました」と言えばいいじゃん?

 なるほど、わかったから言わないよね。楽しい時間はいつもはやい。授業が終わったTT 泣。1人、2人、4人、6人、わー皆先生のところ集まっている。何してる?「先生、ここがちょっとわからなかったんですけど。。」と皆放課後質問。

 へえ、さっき授業の中で先生が聞いたときに何で質問しなかった?先生が「わからないことある?」と聞いたとき「先生、ここはちょっと。。」って言えばいいんじゃないか?全部放課後に質問したら先生が授業中「わからないことある?」と聞く意味がなかったじゃん@@

 「わからないから黙ってたんだよ」。。うーん、じゃどうやって先生に伝える?わかってもわからなくても黙る日本人 >< 何で????

マレーシアで

 マレーシアで先生から「わかった?」と聞いたら、誰かが「はい」と答えるのだ。先生もその答えで安心して、次に進む。

 私の高校経験なんだけど、マレーシアで「わかった?」と聞かれたら、最初は学生が黙っている場合もあるんだけど、先生はあきらめない。「わかった?」と聞き続ける。(だって先生は本当に知りたいもん、放課後クラスに残らないし、その場で質問されたら助かる)学生は最初黙っていても、二回目、三回目、「わかった」と答える(全員じゃなくても答える人はいる)もし本当に全員黙っている場合、きっと皆寝てたり先生の話を聞いてなかったりするだろう。
 
 ここの違いは、日本人の先生は「学生たちどうせ答えないだろう」という暗黙の了解があるようで、「わかった?」と聞いても、返事がないまま次に進める。(じゃ何で聞く?)マレーシアはちょっと違う。先生が「わかった」と聞いたのは本当に学生の了解を知りたいから、学生の返事をほしがる。返事がないと先生はいらいらするよ。だからマレーシアで先生が「わかった?」と聞いたら、わかった学生から返事がある。

 「先生、ここはわからないんですけど」と授業の中で先生に問いかける場合も少なくない。で、先生がもう一度説明してくれる。「うーん、私はそれがおかしいと思いますが。。」と先生に挑戦するときもある、それで学生同士の間で少し議論が始まる。先生はそれを適宜なタイミングに止めてまとめるのだ。

 もちろん、黙る風景はどの国にもありうるよね。マレーシアだってこんな授業風景がある。ここで言いたいことは、日本はもっと黙る傾向にあるということ。黙ってたら聞く側が何もわからないじゃん。何でそれでも黙れるの?

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シェンの考え
 
 実際に今回中国の短期留学にも起こったことで、中国語授業に先生が「皆わかった?」「ここにわからない単語がある?」と聞いても、日本人全員黙ってた。

 でその中国人先生はちょっと焦って、「皆さんもし何も言ってくれなかったら私はあなたのレベルがつかめないんですよ」と言った。それでも日本人は黙ってた。。。

 隣の日本人友達と後で話してみたんだけど、黙るか黙らないかどっちもいい点悪い点があるから、私は判断しないね ;) ここで私はその黙る理由を自分の考えでまとめてみたいだけ。それは「謙虚」と「他人に迷惑をかけない」と二つ考えられる。

 まず、日本人社会では「謙虚」が美であると見なされる。出しゃばりの人は大体いい印象を与えないという社会だろう。「わかった」と先生に返事したら、他の学生から「何だこいつ、自分だけ何偉そうに、先生のごますりでもするつもり?」と思われるかもしれないよね。(例が大げさすぎるかもw)黙っていれば、皆同じだから、誰でも「出るくい」じゃない。謙虚で、和を保てる。

 なるほど、じゃ「わからない」って言ったらもっと謙虚じゃない?

 ううん、今度は「わからない」って言ったら、「他人に迷惑をかける」からだ。先生にもう一度説明してもらったら、既にわかった学生に迷惑じゃん?もう一回聞かされるし、授業の進度が遅くなるし。。とにかくわからないと言ったら他の学生に迷惑だよーと言う考え方ではないでしょうか。

 このように、二つの要素を考えたら、やっぱり黙ったほうが一番「和を保てる」ね。私も賛成だと思う。ここが日本人マインドの良さだと思う。けど、悪い点としては、日本人のディスカッション能力の欠如、発言に自信がないという問題が挙げられる。

 私は生き生きとした授業が好きなので、授業のときいつも先生に質問しちゃう。日本人から考えたら悪いかもしれないけど、いい面もあるよと伝えたい。今度外国人の人が授業を中断して質問するときに、イライラしないであげて。逆にそこで議論を起こせたら、他の学生にもメリットになるのではない?そもそも知識は疑うことから発生するもんだから、黙るより、ガンガン発言したほうが知的刺激を与えると思う ;)



 

Sunday, August 26, 2012

日本人、何で?!ー 乾杯編2 「注ぐ?注がれる?わからん!」

序言

 乾杯編1「先に飲んじゃったの」を書いてみてからいろんなコメントをもらった。その中でやっぱり「そうなんだ!」「気づかなかった!」というコメントが多かった。それはいいことだと思う^^今まで当たり前のようにやってきたから気づかなかっただけのことであって、これから意識してもらえたらいいね。

 友達の一人が乾杯編1を読んでから、バイト先の居酒屋で働いているときにお客さんを見てみたら、やっぱり「まだ飲んでない状態で一緒に飲む」ということにこだわっていることがわかって面白かったという。それを言ってもらえたことにはとてもうれしい^^これからは日本も「国際的」「グローバル」などの言葉が強くなる時代なんで、もちろん自国の文化を捨てろというわけじゃなくて、「自国文化は当たり前じゃない」と覚えておくといいかもしれないね。

 文化は良いか悪いかという答えがない。理解できるか理解できないかの違いだけだと思う。旅行が好きな人も少なくないだろう。旅行に行くときに一々「この国のこの文化が嫌い」「もうちょっと合わせてくれないか」と思ったら疲れない?逆に旅行に行くとき、「ああ!この国はこういうことをするんだ!面白い!」「なるほど、日本人はこうしないよね」といろいろ発見できたら世界が美しく見えるよw 旅も人生までも楽しくなると思う。

 さて、もう一つめんどくさい乾杯編エピソッドに行こう!

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乾杯編2 「注ぐ?注がれる?わからん!」

 日本人はこういうときなんてめんどくさい。私はいつも「日本人、何で?!」と思うんだ。

 社会人の知り合い、先輩、友達の家族、先生などと飲んだときのこと。

 「ああ、大丈夫です。私は自分で注ぎます!」とビールを注いでくれようとする Aさん(社会人の方)に私はそう言った。

 Aさんの動きは一瞬で止まって、私の隣に座っていたBさんが言った。
 
 「シェン君、こういうときは注いでもらって」

 へえ?!何で?私が自分で注いじゃだめなの?わかった。大人しく「お願いします」って言った。

 あれ?何でまだ注いでくれないの?グラスはテーブルの上に見え見えじゃない?まさかグラス見えていないとか?

 「シェン君、グラスを手に持って、注いでくれる人へグラスを傾けなきゃ」と隣のBさんがまた注意してくれた。

 えっ?うそ!お酒注ぐならさっさと注いでくれればいいじゃん。何でこんなにめんどくさいんだよ。マレーシアではお酒を注がれるとき、自由にどんな形で受けてもいいのに、テーブルの上に置いたまま注がれることも多い。注ぐ人が立っていたり距離が遠かったり注ぐのが難しいときだけグラスを手に持ってお酒を受けるのだ。わかった。やればいいでしょう?手に持つわ。

 じゃ何で私はこういうときに自分で手酌をしちゃだめなの?

 「Aさんは目上の人なので、Aさんが先に注いでくれるときは受ける。その後目下の人から注いでも失礼にならないよ」

 ああああああ、何でこんなにめんどくさい?マレーシアでは、目上か目下か関係なく、好きなように注ぎ合っている。普通の飲み会だったら、飲みたい人、飲める人が大体注ぐ役になる。なんか私の気づきなんだけど、マレーシア人が他人にお酒を注ぐときは、大体自分が飲みたい時に。自分のグラスが空いたとか、自分がお酒注ぎたいと思ったら、始めて周りにお酒を注いでほしい人を探す。逆に、日本人は相手のグラスが空いたのに気づいてから注ぐ行動をとる。

 「シェン君、グラス空いたよー」Bさんが私に日本のマナーを教えようと、Aさんのグラスが空いたことを教えてくれた。

 「あああ!!Aさん、どうぞ」と私がピッチャをつかんでお酒を注ごうとした。

 「ただの食事じゃないなーこりゃ。」と私はそのとき思った。全然ひまがなかった。話しながら、周りのグラスの空き状態に気を配らなきゃいけなかった。しかも、誰が注ぐか、誰が注がれるかも目上・目下の関係で決まりがあるみたい。難しいなー何で楽に飲めないの?マレーシアだったら皆話しながらグラスの空き状態に気をつけなくてもいいし、好きに注ぎ合っているし。

 日本では、グラスの空き状態に気づく力が鈍い私みたいな外国人は、下手をしたら「KY」「気が利かない人だ」と思われる恐れがある。マレーシアだったら、相手が自分の空いたグラスに注ごうとしたらまたそのとき、「注いであげるよ」と申し出て注いであげても「気の利かないやつだなー」と思われないし。とても楽だ。

 一つおもしろいこと思い出した。母のいとこの娘の結婚式の宴会のときだった。そこでその娘の兄弟(20代)、つまり私のいとこたちがテーブルを回ってお酒を注ぎまくっていた。目上・目下関係なく彼らは70歳のおじさんにも、18歳の若者にもお酒を注ぎまくっていた。こういうのは日本であり得るのかな?と思ったw笑 目上・目下じゃなくて、結婚する人の身内の人がお酒を注いでいるということね。

シェンの考え:

 日本がお酒の注ぎ方に決まりが多いその背後にある価値観としては、「長幼の序」と「他人への配慮」が考えられるね。

 「長幼の序」というのは儒教の思想で、年長者の年少者との間にある秩序というのを守らなければならないということ。こういった思想は日本社会に昔から根付いてるとわかる。例えば、学校の授業でよく見られるのが、先生が何を言っても「正しい」と認めるしかない雰囲気。先生に反論しちゃだめとか、そういうシーンは大体「長幼の序」が関係しているのではないかと思う。もちろん、先生に反論しない面においては、日本人の「出るくいは打たれる」という美学にも関係していると思うんだね。これはまた今後話そうw
 
 ちょっとびっくりしたのが、この「長幼の序」がお酒注ぎまで浸透しているってこと。この「アジアの美」と言われる「長幼の序」という思想をここまで守ってきた日本人はやっぱりすごいなと思う。他にもたくさんのエピソッドがあるので、今度書くねw

 「他人への配慮」という部分は私個人的に一番のお気に入り!^^日本では本当に何でも他人のことを優先する。これは世界中を見ても、ここまで「他人への配慮」を極めた国は多分日本だけだと思う。電車の中で他人へ迷惑かけないように新聞を何回も折り畳んで見ている日本人、バスの中携帯を話しちゃだめ、仕事終わったのに残業している同僚を思いやってわざわざ会社に残るという話、これら全部他人への配慮の例。もっともっとあるんだけど。まさか飲み会まで他人への配慮が重視されているとは、すごいなー。
 
 しかし、こういう他人への配慮が多すぎて、『他人へ配慮すること=当たり前のこと」という社会になっている気がする。そうなったら、人は人を判断してしまう。「こいつKYだなー」「こいつ社会人じゃないな」などなど社会マナーがわかるかわからないかが、人を判断する基準になっている。もはや仕事のパフォーマンス、能力だけじゃ足りない。あなたはどれだけ「他人への配慮」できるかはもう一つ大きなテストになっている。これは多分「日本で働くのがいやだ」と思う外国人たちの主な理由の一つだと思う。私たちにとってそれらは「当たり前」じゃないから、「配慮する」じゃなくて、「何で私はマスクを付けて知らない決まりなどに盲従しなきゃいけないの?」と思うわけ。
 
 でも、やっぱり「他人への配慮」はとても美しいと思う。日本からいろんな配慮を学んで、マレーシアに帰るたびに、「シェンGentlemanになったな」といつも言われる。これは人間関係をうまくする一つ大きなポイントだと思う。こういう意味では、私は日本に感謝している^^配慮しすぎるに伴うめんどくささがいやだけどねw 笑

 ということで、みなさんもよかったら、お酒の注ぎ方だけじゃなくて、その背後の意味を意識しながら、やってみてくださいね。そうしたらとても楽しく注げると思うw それを知らない外国人の私たちにももっともっと教えて^^

 よろしく!

Saturday, August 25, 2012

東京へ旅ー「先友」のSんに恋愛宣言

あっという間にまた一年半経った。
久しぶりに佐々木さんに会うことになった。

Sさん、俺のブログによく出ている人物。
4年前に来日したときにいろいろ面倒を見て下さった寮長さんのこと。

 長いと思うと、短かった4年間だったな。
 初めて会ったときの俺は、日本語がたどたどしかった。Sさんとの会話もそのときから受験勉強、日本語語彙勉強が多かった覚えがある。
一年後帰国して、戻ってくると思わなかったのに、また二年後日本に戻ってきちゃった。

 一年半社会人を経験した大学一年生の俺は、物心がつき始めた赤ちゃんのように、日本語の理解力が高まり、社会経験を堂々と後輩に語れるようになった。去年春会ったとき、Sさんに「君とはこれから友達の関係だよ」と言われた。いきなり先生と学生という関係から友達にという特別扱いされるんだ、俺ってすごいなと、うれしくて少し調子に乗った気分でいたかもしれない。俺はSさんの友達だ、友達だ、友達だ。

 今回で三回目になるんだけど、なんかまたSさんを見る目がまた変わった気がする。市ヶ谷駅を降りて、改札口で足を止めた。Sさんに会うんだとずっと数日前から緊張していた。一体何を緊張しているのかもわからない。その緊張感をほぐすためでもあるか、今朝出かけたときにもう一度「お会いすることを楽しみにしています」というメールを送った。やはりSさんだけは会うたびに緊張するわ。
 
 少し落ち着いて大人の一面で迎えられるために、約束時間より40分前に市ヶ谷駅に着いて、入り口にあるスタバックスでコーヒーを買ってリラックスしていた。どこかの心理研究を見たことがある。にぎやかな所で座っていて通りすがりの人波を観察することは、心をくつろがせるいい方法の一つであると。俺は駅を行き来する人たちを観察し始めた。うーん、確かに落ち着いた。人波の中にいるときと、二階にあるスタバックスの窓から見るときと、全然違う感じをするよね。窓から見た世界は、なんだか皆余計に忙しくしているように見える。本当はそんなに忙しくしなくてもいいじゃないと言わんばかりに、コーヒーを飲みながらからかっていた。

 携帯が鳴った。Sさんだ。
 俺は慌ててコーヒーのゴミを片付けて出て行った。
道端に泊まっていたタクシーの運転手さんに道を聞いて、東京理科大学に向かって川辺に沿って歩いていった。Sさんは逆方向で向かい側から歩いてきた。ああ!懐かしい顔だ!相変わらず元気だね。信号が赤だったから、俺とSさんは道路を隔てて手を振っていた。長かったな。どれぐらい待ったんだろう。10分?20分?1分しかないのに、なんか一世紀も待った気がする。

 思いっきりハッグした。Sさんとは握手だけで再会したくなかった。ハッグした瞬間はなんか心はとても複雑だった。「先生?」、「友達?」、先生のような友達のような関係だね。昔はハッグしたことなかったのに、社会経験をしてからの再会はなんか素直にハッグできるようになった。なじみを感じているようで感じていないようなハッグだった。でもうれしかった。こんな微妙な気持ちで俺はSさんと友達になったんだ。

 Sさんの事務所でちょっとお茶話をしてからブンイさん(マレーシア人の同期生)と一緒に晩ご飯を食べに行った。


 今回の再会のテーマはなんと、恋愛だった。俺は高校3年生からずっと恋愛していなくて、いつも勉強やいろんな活動に頑張ってきた。

(以下会話は要約したもので、完璧に当時を再現していないよ)

 「Lim君、恋愛したほうがいいよ。若いうちにたくさん恋愛して。30代になったら20歳には戻れないよ」とSさんがずーーーと言ってた気がする。

 「知ってますよ。けど相手がいないんですよ。」

 Sさんによると、本気に好きな子がいなくても、ちょっと気になる子とか、アップローチしてきた子とかでもいいから、チャンスがあれば恋愛してみたほうがいいってこと。

 「だめだよ!本当に好きじゃなかったら、相手と無闇につきあってしまうと相手を傷つけるじゃん!無責任なことをしないでよ」とブンイさんは反発を覚えた。

 そのあとも熱論をしたが、辿り着いた結論は、恋愛は傷つくものだ。人は失敗から学び、次に自分にふさわしい相手がわかってくるのだ。大事なのは、そのときの恋愛。恋愛してみないと何も起こらないよ。もしかしたら本当に相手のことが好きになるかもしてないし。もちろん、つきあい始める前に、ちゃんと自分の立場を相手に伝えるべきだね。気になってるけど試しでつきあってみたいなら、ちゃんとそのことを相手に伝えて、もし「うん」って言われたら、相手も責任をとらなければならないから。傷つくかもしれんけど、本当に幸せにもなるかもしれない。

 一番大事なのは、そのときの恋愛を感じるのだ。何もしないよりも、何かを始めたほうが、いろいろわかってくるんだよね。

 「わかった!俺は恋愛するぞ。」と、Sさんに宣言しちゃった。笑

 確かに何も始まらないよりも、チャンスをつかんで何かを始めてみたほうがいいかもね。次セメこそがんばってみる!!

 Sさんといつの間にこんなトピックを話せるようになった。うれしいなー。やっぱり、俺は友達になったんだ。でも、友達だけじゃない。先生と友達の間だ。「先友」と呼ばせていただこうかw 笑

 次セメどんどん気になる子にアップローチしてみせるぜ Sさんw笑 




日本人、何で?!ー 乾杯編1 「先に飲んじゃったの?!」

序言
来日してそろそろ4年目に入った。
日本の社会でいろんなカルチャーショックを経験し、
いろんな気づきをしてきた。

同じアジアといっても、日本はとても独有な文化と社会的規範を持っている。
しかも、それらを毎日当たり前のように日本人が繰り返して守り続けてきた。
外国人の私から見ると、いつも「何で?!」と思うことがたくさん気づいてきたが、
今まで一度もメモしていなかった。後で思い出そうにも、あやふやなイメージしかなくてとても悔しかった。

なので、日本における生活の中で気づいた「ここが日本人だ!」と思ったことを全部少しずつこのブログに書いて行こうと思っている^^自分がもっと日本社会を理解するための復習にもなるし、読んでいる日本人のあなたに「実はこれは当たり前じゃないよ」と意識してほしい部分もある。日本人として「ここが日本の部分か」と自覚し、これから外国人とのコミュニケーションにおいてこれらを「多分相手にとって当たり前じゃないかも」と意識した上で、コミュニケーションを行ってもらえたらなと思う。

p/s ここで書くことは全て外国人の視点から書いているので、多少「これはなくてもいいじゃない」というような内容が多いかもしれないが、別に悪意を持ってコメントしている訳ではなく、ただ私にとって「それが当たり前じゃないから」と言いたいだけ。本当は日本人の全ての社会マナーがとてもいい意味を持っているから。

さて、まず乾杯編から行こう^^

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乾杯編

ずーーーと前から心の中に不満を持っていた。
それが日本人の乾杯だ。

「あっ!シェン飲んじゃったな!おまえ」と鋭く目線を送りながら、乾杯する前に一口飲み物を飲んだ私を責めてきた。

「いいじゃないか、喉渇いたし、少し飲んだだけ、乾杯する意味は変わらないだろう?」

 このようなシーンは外国人と乾杯するときよくありませんか?司会者が話しているとき、聞いている人はただ聞いて待つだけ。絶対飲み物を飲んじゃだめという経験をされたことありませんか?

 私は「日本人、何で?!」と思うんだ。飲みながら司会者の話を聞いた方が楽じゃない?喉渇いたし、スピーチ長いし、楽な気分で話を聞かせてくれないか?と思うんだよね。

 マレーシアでは、乾杯するということは、何かの勝利、いいことのために飲むという意味をしている。ここは日本と一緒だと思う。けど、日本の乾杯はどうやら「皆で一緒にまだ飲んでない状態から乾杯する」ということにこだわっているようだね。

 マレーシアでは一番大事なのは、「一緒に乾杯する」ということ。「飲み物の状態」ということはあまり気にしない。あなたの飲み物が半分飲んだ状態であろうが、まだ口付けてもいない状態であろうが、大事なのは「乾杯する」ことなんだ。別に「必ず皆飲んでいない状態で一緒に乾杯する」ということにはこだわらない。

 多分日本以外の国も「まだ飲んでいない状態で一緒に飲む」という国があるかもしれないが、マレーシアでは気にしないよね。少なくとも今まで会ってきた東南アジアの人たちもあまり気にしていないような気がする。

シェンの考え:

 日本人が「まだ飲んでいない状態で一緒に飲もう」ということにこだわる理由として考えられるのは、多分「話している人・一緒に待つ人への尊重」と「待った物がおいしい・意味ある」という考え方にあるのではないかと思う。

 確かに司会者が話しているときに、あっちこっち飲み物を味見し始めたら、なんか話を聞いていないように見えるよね。他の人が待っているのに、私だけ飲み始めて、なんか不公平だよね。そういう意味では日本人は他人への配慮・尊重をとても大事にしていると捉えられると思う。

 もう一つの「待った物がおいしい・意味ある」という態度は私個人的にとてもすごいと思う。宗教か社会教育か知らないけど、日本人はどうやら「手に入りにくいものはその意味が大きい」という見方が強いようだね。もちろん他の国の人も同じ価値観だけど、日本の場合はもっと些細なことにもこういった傾向が見られるみたい@@町のレストランとか見たらわかると思うんだけど、何を並んでいるかもわからないのに、列に並んで待ってしまうという日本人が少なくないだろう。やはり「待った飲み物がおいしい」という考え方が強いのでは?まあこれはまた他の気づきに出てくるから、また話そうねw 笑

 ということで、これからもし外国人と乾杯するチャンスがあれば、向こうの乾杯文化も聞いてみたら良いと思う。「そっか、なるほど」という態度で異文化に接することが大事だよね。日本人と違うやり方をされたときに、怒らないで説明してあげてくださいね。^^笑

 では、皆乾杯!(待ちかねただろうw)

p/s ちなみに、マレーシアの中華系の人(私)の乾杯は、「ヤームセーン」(広東語)と発音して、漢字で「飲勝」と書く。皆手を挙げて、長く「ヤーーーーーーム」を続け、最後司会者の合図で「セーーーーン」を言って乾杯するよ^^

Friday, August 24, 2012

诚信

今天无意间看见了fb的分享帖
关于萧源盛战地医生说谎的事件
这风波可能已有好一段时间了
人在日本往往会跟不上马来西亚的时事,这点FB正好帮了个大忙

看了这则新闻,心情非常地复杂。
回想起如果是以前的我,很可能会直接地觉得这个人真不应该,伤天害理。
不过这一次我并没有直觉地吐糟,却有了另一番感触。
那就是 --- 诚信

尤其是看了这篇文章,更是深有同感。
http://www.malaysiakini.com/letters/205373

想起上过的一堂社会心理学,说人类是群体行动的动物。这个社会没有人可以是孤单一个人的。的确如此,生存在这个社会上,一个人的每一个行动,都会对他人造成影响。
在这个互动之中,产生诚信。
人真的只要一朝失信,便永远从该群体出局。

我想我会有这番感触,可能是之前发生在我身上的一件诚信纠纷。
4年前如果我不那么幼稚祸从口出,失信了,就不会有这次的纠纷。

从小到大外公都教导我做人最重要的就是要有信赖。
以前都只是听了就算。现在真的感同身受。
很庆幸我来日本留学。日本可能是全世界最讲求诚信的社会了。
在这里生活了几年,我即使没有达到完美的言而有信,也从以往轻率的自己大大改变了。
至少,能对一则新闻而有感而发,写下对诚信的感触,这一举动可能也能说是经历日本社会训练的成果。

谢谢外公,谢谢日本 :)
很庆幸我在写这篇日记时,年仅23岁。可能有些晚了,不过庆幸自己尚未行差踏错。
这是一则对自己的警告文。
往后的人生,不时读起这篇文章,时时督促自己要言而有信。
千万不能轻易祸从口出。

信赖,信用,诚信 --  这些词将成为我的座右铭 ;)

Friday, August 17, 2012

東京へ旅ー芸術とぶつかる

快い晴れの日に、俺は一年半ぶりに会っていない、
3年前に東京で日本語学校に通っていた時の韓国人友達ージウンちゃん、に会った。

数日前からメールでやりとりしていて、彼女の通っている大学を案内してもらうことになった。彼女は絵を書くのが上手で、日本語学校卒業後日本でトップの武蔵野美術大学(略称むさび)に入学した。俺が勉強しているビジネス・社会学の大学と違って、美術大学ってなんか聞こえが美しい。そこにきっと俺の知らない別の世界のものがあると確信して、見学させてもらいたいと申し込んだ。

涼しい風が吹く朝だった。一週間東京で暮らしてきて、もうその人波の巨大さになれたと自分を納得させて、ゆっくりと何気なく町を歩こうとした。この混雑の中で少しでも詩人みたいになって、他人と別の世界を見ているようになれればいいなと、一所懸命芸術センスをつけてみようと、自己催眠をしていた。なにしろ、これから芸術と出会うからだな。

無事に約束の場所ー国分寺に着いた。やはり、俺は東京人じゃないんだ。いくら詩人を装おうとしても、俺はその人波に吞まれてしまう。
電車の中で押し合われて、隣に立っていた人たちと体を何度もぶっつかって、電車を降りた時点もう、朝出かけたときに付けたデオドラントの香りが消された。しかもいろんなにおいがついちゃって、まるで花になったようだ。とりあえず、詩人の心でジウンちゃんを迎えるために、心を整えて、近くにある薬局でデオドラントのテスターを使って気分をリフレッシュさせた。

ジウンちゃんが迎えにきてくれた。相変わらず元気だな。
いや、何か変わった。一年半前と比べたら、何か昔になかったものが感じられた。
ま、考えてもわからないから、とりあえずキャンパスに行こう。


むさび周辺に入った瞬間、雰囲気が変わったのに気づいた。
ここには早足で走っているように歩く人がいない。しかめっ面で携帯を打っている人がいない。ここを歩いている人たちの表情になんだか幸せを感じさせる。俺がどんなときにそんな顔をするかというと、APUのウェーブで横になって空を見つめるとき、別府の夜景を眺めるとき、そういう顔ばかりだった。

その理由を掘り下げると、こんな光景が目に入った。
そうだ、キャンパス内どこに行っても、絵を描いている人がいる。
何時間をかけてでもじっとゆっくり、のんびりと絵を描いている。俺は人生の中で一度もやったことないな。こんなゆったりした心も生きていくうえで大事なのかもしれないなと思った。


朝ご飯を食べよう。キャンパスのパン屋さんで唐揚げハンバーガーを入手。スパーうまい!APUにも売ってほしいな。


むさびのキャンパスには展示場、美術館もある。特にむさびは椅子のコレクションが有名らしい。昔の椅子から現代まで椅子が展示されていて、それぞれについて詳しい説明もついている。観光客にも人気らしい。


Climate Changeを題した各国の大学生がデザインしたポスターの展示。
グラフィックデザインは何を勉強するのかという疑問をずっと思っていたんだけど、
これを見たらグラフィックデザインの難しさがわかった。それに、俺みたいなデザインバカも刺激をもらった。今までポスターを見て解釈しようとしたことなかったから、
自分の想像力のなさに驚いた。ここで展示されてるポスターはほんとうに独創的なものばかりで、葉っぱのテクスチャに走っている車とか、傘を逆さまに書いて雨をためるとして「save it , dont waste it」と書くとか。俺もこんなセンスをつけなきゃなと思った。社会学・経営学の大学出身の俺はものの見方あまりにも浅すぎる。枠内に限られすぎて悔しい。
その後も他の美術作品の展示を見てきた。ほんとうに良い刺激だったな。


晩ご飯はジュンちゃんとインド料理食べた。
俺たちはいろんな話をした。そこで気づいたことが多くて二人とも楽しかった。
美術専攻の彼女は社会学の俺と全然違う視点で世界を見ている。
例えば、一つの絵を見るときに、俺は絵に出ている人物はどんな時代背景に置かれているか、何でそんな服装をしているかとかに注目する。それに対して、彼女は何でこの色を使ったのか、何でこんな形で飾られたのかとかを考える。おもしれー
これは一つの問題を考えるときに、さらに差が大きい。
日韓関係の問題について、彼女は両国のリーダーとも互いに譲り合えば良いだけの話なのに、将来こうすればいいじゃんという平和的な考え方で、俺は両国がなかなか譲り合えないのがきっと他にたくさんの理由があるからじゃないという問題の原因を探求する現実的な考え方。物事の見方は多角であることを改めて実感したな。

ジウンちゃんと前回会ったときよりも、話すことが多くなった。それはなぜかというと、一年半経って、俺たちは自分のやりたいこと、目標を見つけたからだ。彼女は自分の本を書きたいという目標があって、俺は自分の映画を作りたい。

ここでこの前に韓国人の友達から聞いた話を思い出した。
ハバード大学は学生の新入生から卒業十年後どんな成功を成し遂げるかについて調査した。その結果、100%の中で70%の学生が普通の会社員で生活を送っていて、30%の人が各業界で偉い人になった。30%の中でさらに3%の人がSteve Jobみたいな世界を変える人になった。
そこで何が違うかというと、その70%の学生は学生時代に、目標を立てず、ただ勉強するために勉強したという。卒業後良い会社入れればいいと、やりながら考えるタイプ
30%の学生は自分のやりたいことが決まっていた。例えば、本を書きたい、学校を作りたいとか。
3%の学生はさらにでかい夢を持っていた。世界のITを変えるとか。

ここでいう目標・夢というのは決して言うだけじゃなくて、本当にやりたい・自分ならできると感じていなければ意味ないから。

これを二人で共有し合って、俺たちはその30%の学生になろうと決意した。
必ずやりたいことを自分はできると思えるように頑張る。口だけじゃなくて、実践に落とすんだ。

ジウンちゃんとの話し合いで、本当に自信がついた。これからの道は一人じゃないんだ。
彼女も一緒に戦ってくれるからと、気持ちいえないが、なんだか感じた。
これからの再会本当に楽しみにしている。会うたびに二人とも変わっているだろう。

ジウンちゃんがんばろう!^^

東京へ旅ー公文

十日間東京の旅を終えてきた
別府〜ただいま^^

今回の旅、いろんなこと起こった気がする。

公文最終報告会:

まず公文の最終報告会が半端なかった。出発まで徹夜の毎日を送っていたにもかかわらず、発表の前日までぎりぎりPPTを仕上げて、しかも夜中に意見の食い違いなどで泣いたりする人もいた。
あの夜はとても複雑だったな。でもよかった。心の中にたまっていた苛立ちを全部さらけ出して、すっきりしただろう。俺たちはチームワーク力がないという?俺にとって、これができること自体、既にチームワーク力の証拠なんだ。

このチームは皆個性的だ。本当にそう思う。
個性的なのに、共通するものがあった。それは和を保つことに気にしすぎることだった。
リーダーは大変だっただろう。常に和を保つことを考えて行動しなければならなかった。最後の最後にようやく我慢できず、リーダーがだめだしの暴走にいたった。リーダーの本音の暴走は確かにメンバーの何人かに傷づけたかもしれない。正直に俺も嫌われた所を言われたとき、なんだこいつと思っていた。リーダーだって嫌われる所もあるはずなのに、なにえらそうに人の欠点を言ってんの、と心の中に言われた瞬間思っていた。けど、本当に言われた通りに自分が悪かった。自分が悪かったといっても、悪かったのは自分の行動のことを指す、自分そのものが悪いなんて誰にもないはずだ。それを皆わかっていてその場で反省していただろう。

戦いの寸前にいきなりこのような気まずい雰囲気になっちゃって、誰でもやばいと思うだろう。しかし、ここで皆の悪い行動を言われたら、寧ろ反省の意を起こして、逆に次のステップに進めたと思う。

リーダーと優子は心が強かった。普段何も感じていないふりを見せているリーダーが発表の最後まで我慢して泣いた姿と、あの夜皆の前に自分のだめなとこを突っ込まれて、号泣してまた笑顔で部屋に戻って皆に素直に謝れた優子の姿も、とても印象強く俺の心に焼き付いた。振り返り会にこの4ヶ月間を通して自分の成長どころか、自分の他人に劣るとこをたくさん見つけたと涙ながら言ったともみの心の深さにも感心した。それにホテルの部屋で自分を変えたい、強くなりたいと強く願って俺の前に涙を流したなおやの悔しい心に感動した。

俺はこのチームの皆が大嫌いだった。でも皆の心に触れてから、大好きになった。
そうさ、こうでなくちゃ。皆本当にすばらしかった。強くなりたい気持ちは何よりも自分をもっと高く上げていくんだ。俺は心より将来の皆を楽しみにしている。
皆きっとすばらしい人になっていくと信じている。初めて他人の成長を楽しみに思った。

これって、公文教室が俺に教えてくれた一番の成長かもね。
他人の成長を楽しみに思える、心より信じられるようになった俺。

皆ありがとう^^